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追伸

 投稿者:松下彰良  投稿日:2004年 8月15日(日)23時28分23秒 pddfac3.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp
返信・引用
   パンドラさんは哲学関係のいろいろな掲示板に出没されているようですが、私はよその掲示板はほとんど見ていません。三浦さんの掲示板さえも(たまに読むことはあっても)ほとんど読んでいません。 ですから、横井さんといわれても知りません。

>ちょっと気になるのは ・よ・う・に・見・え・る というのはルビンに関して
>「それは盃図である。」 とするのは偽!ということではないでございますよね?

 もちろん偽ではありません。ただし、作者がたしかに顔図を描き、視覚異常でないすべての人に顔図に見えるが、ごく一部の視覚異常者には「盃図」に見えるというた場合、「「それは盃図である」というのは偽である」、といえないこともありません。しかし文化が違えば、「盃図」は「キャビア用容器である。」(のように見える)ということもありえますので、いちがいに偽ともいえません。

>うーん、たぶんこれは論理と心理の混同とは、異なるものとおもいます。

 論理と論理以外のものといったほうがよいかもしれませんが、おおざっぱにいって、論理と心理との違いといってもまちがいではないように思われます。

 以上、追伸でした。

 
 
 

松下さま

 投稿者:パンドラ  投稿日:2004年 8月15日(日)23時03分37秒 adsl219122107047.ucatv.ne.jp
返信・引用
  もしかして、松下さまは、こちらの横井さまの影響を受けていらっしゃるのでしょうか?
>「それは盃である。」ように見える。(A.「ただし」・・・のパースペクティブで見たら。
http://www6.plala.or.jp/swansong/000005tetugakumokuji.html
わたくし読もうとしましたが、ちょっとボリュームに圧倒されておりました。

ちょっと気になるのは ・よ・う・に・見・え・る というのはルビンに関して「それは盃図である。」
とするのは偽!ということではないでございますよね?
>この場合、但し書きが重要です。

うーん、たぶんこれは論理と心理の混同とは、異なるものとおもいます。

この議論の発端は、わたくしが命題的態度の質について感想を求めたものに対して、
φさまが排中律を引き合いに出して、此れに応じてくださったことにあります。
φさまは、たぶん陰で笑っていらっしゃるのだと存じますが、わたくしと松下さまの議論は
実質的に、命題論理の公理に排中律を持ち出すか否か、の議論
つまり、直感主義と形式主義の論争に他ならないと思っております。
わたくしが命題的態度を持ち出して、ちょっと脚色したわけでございますね。
『松下さまの真珠』-人工知能M-1号に、ちょっと絡んでしまいました、おゆるしくださいませ・・・。
http://wagesa.cool.ne.jp/music/j-folk0/romanoame.html

 

見えの世界(論理と心理)

 投稿者:松下彰良  投稿日:2004年 8月15日(日)11時03分46秒 p290dad.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp
返信・引用
   「普遍」ということばの定義の前に、「ルビンの顔図」を見て定立される命題についてもう一言。
 
 「ルビンの図」を見て、「それは盃である。」とか「それは顔図である。」(ルビンの図=盃: 等号で結ばれている。)といっても、絵そのもの(全体)が一つの命題で表される(完全一致)するものではありません。
 正しく言うとしたら、次のようになると思います。

 「それは盃である。」ように見える。(A.「ただし」・・・のパースペクティブで見たら。
 「それは顔図である。」ように見える。(B.「ただし、・・・の・・・で見たら。)

 この場合、但し書きが重要です。
 「ルビンの図」はいろいろに見えるかも知れないが、但し書きAのパースペクティブでみたら「酒盃」に見えますね、と言えば、(「酒盃」というのはこういうものであるという共通理解がある限り、)みんな「酒盃」に見えるはずであり、「顔図」には見えないはずです。(但し書きBのパースペクティブでは見ていないのですから・・・。)

 それからたとえばギリシアでは「酒盃」として使っていたものとほとんど同じ形をしたものが、○×時代の△△という地域(国その他)では、「キャビア」の盛りつけ専用の容器として使われており、「ルビンの図」を見せられると、「それはキャビア用の盛りつけ容器である。」(ように見える)と言うかもしれません。それは「見え」の世界のことですから、何の矛盾もありません。
 
 地域や時代によるとらえ方の違いをいわなくても、実際、1枚の絵や写真について、無数の言明・命題をつくることができます。しかし「・・・である。」ということは言えず、あくまでも「「・・・である。」ように見える。」としか言えません。(もちろん、この図は黒と黄色の2色の絵の具を使ってかかれている、というような言い方はできます。)二律背反(アンチノミー)の問題がどうして出てくるのか理解できません。(論理の問題と心理の問題の混同はさける必要があります。)
 「ルビンの図」はこれぐらいにして、「普遍」の定義について一言。

 パンドラさんが「普遍」の定義を、「いつでも、どこでも、だれにでも」とされていますが、私も特に異論はありません。「普遍」という言葉は、日常的には必ずしも厳密な意味では使わず、TPOによって意味内容を変え、少しルーズに使っています。
 ところで、「いつでも、どこでも」はよいとして、「だれにでも」という場合、パンドラさんは、これまでに生まれ死んでいったまたこれから生まれてくる「人類」全体を指して言われておられるのでしょうか? それとも人類に限定せずに、普遍者(全知全能の神のようなものを想定)を考えておられるのでしょうか? この地球上では現在、進化論上、人間が最も高度に知的発達をとげた生命体ですが、10万年後には、この地球上に、人類とは言えない、さらに高度な生命体が突然変異でもなんでもいいですが、生まれた場合、それらの生命体も「だれにでも」の範疇にいれる必要がある(あるいはない)とお考えでしょうか? 人間とゴリラやボノボとの知的能力の差はかなりのものがありますが、遠い将来、人間とその後に出てくるより高度な生命体との知的能力の差もかなりのものがあるかもしれません。「普遍」「普遍」といいながら、一方「人間の意識」に必要以上こだわるのは、少し矛盾しているような気がしますが、気のせいでしょうか? 
 
 われわれは人間ですから、人間としての限界はさけようがありません。しかし、可能なかぎり、論理の問題と(人間特有の)心理の問題との混同はさけたいと思います。何を考えるにしても人間の立場で見たり考えたりするわけですので、限界はありますが、人間にばかりこだわらずに、人間を含めた全生物、ロボット、その他それらを含んだ世界や宇宙について、いろいろ、空想も含めて、考えていきたいと思います。
 

松下さま

 投稿者:パンドラ  投稿日:2004年 8月14日(土)23時56分39秒 adsl219122107047.ucatv.ne.jp
返信・引用
  >「それは盃である。」に対し、
>「それは顔図である。」は、「それは盃である」の否定が含まれているので、二律背反で
>あると言われるのでしょうか? それは少し苦しいですね。
おそらく、わたくしとは『普遍』に対する、定義が幾分異なっているのかもしれませんね。
わたくしの考えるものは「いつでも、どこでも、だれにでも」等しく判断される命題を設定
することを、普遍的定義と、しております。
意識は事実世界を「現在と過去、そして未来」に設定しますが、五感が捉える感覚に
よって与えられるものを知覚して、『今(現在)』の事実命題をつくる、と考えます。
『ルビンの壷』は、視覚によって与えられるものは、ひとつの感覚です。
今、意識がそれを盃とらえ、次に意識が同じ感覚対象を顔図とするなら、わたしが
考える普遍定義、「いつでも、どこでも、だれにでも、同じ」に抵触する、と考えました。

命題論理の式の真偽は普遍的であることが、前提ですから、ルビンの図の場合、その
認識は個別者による制限を受ける、つまり、『命題的態度』を無視できない部分があると
考えたのですが、松下さまの『普遍』の定義は、どのようなものでございますか?
 

RE 原文を探しています 

 投稿者:松下彰良  投稿日:2004年 8月14日(土)20時53分55秒 p290dad.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp
返信・引用
  幾多郎さん

 お探しの The harm that good men do の電子テキストは、まだインターネット上には
アップロードされてないようです。
 下記のURLに、スキャナーで読み込みHTML化したものをあげておきました。誤変換
などある場合は教えてください。

 http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/0393HGMD.HTM
 

二律背反?

 投稿者:松下彰良  投稿日:2004年 8月14日(土)16時15分24秒 p290dad.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp
返信・引用
 
>Pが『ルビンの壷』に対する認識としての命題であるとき、すくなくもパンドラとして
>の『わたし』が、判断すれば、「それは盃である」か、「それは顔図である」が二律
>背反で、いずれかを選択しています。

 ルビンの図が与えられた場合、どうして「それは盃である。」という命題と「それは顔図
である。」という命題が二律背反になるのでしょうか? ルビンの図は有名(論理学ではな
く心理学で、即ち論理の問題ではなく心理の問題/人間の感覚の問題)ですので、見方に
よって2つに見えると多くの人が知っているわけですが、3つに見える図をつくることもで
きます。
 「それは盃である。」に対し、
 「それは顔図である。」は、「それは盃である」の否定が含まれているので、二律背反で
あると言われるのでしょうか? それは少し苦しいですね。
 命題ではなく、1枚の図、写真などの画像については、無限の命題をつくることができるで
しょうから、それをどのようにして排中律の問題とからめることができるのかよくわかりませ
ん。正直いって、パンドラさんが何を問題にしようとしているのか、いまひとつよくわかりま
せん。
 なお、知能ロボットはもちろん私が例にあげたものですが、「パンドラさんが想定する・・
・」と書いたのは、「「これは、向き合った人の絵である」か「これは酒盃の絵である」のいず
れが真か、判断」することができる(限定付きの)ロボット=パンドラさんの言うことを確かめ
られるロボット」、ということでそのように書いたしだいです。
 

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