|
松下さまの読み、これに近いものを一読したときに出したのです。
オットーライン・モレルとバートランド・ラッセルの関係ですが、
彼女の夫のフィリップ・モレルが認める形であったように見うけられます。
これは、フィリップにも愛人がいて、一種のtradeだったように見うけられます。
これを可能にしていたのがヴィクトリア朝の上品な伝統的モラルないしは旧習を
廃する「進歩」という考え方でした。
しかしながら、このフィリップの進歩的な考え方において、離婚は想定外なことでした。
想定外なのは、離婚により現在の経済的安定性が大きく揺らぎ壊滅するかもしれない
からではないかと推測されます。その一例として、ラッセルの兄の離婚が挙げられる
でしょう。テレグラム・ハウスを手放すことになり、ラッセルが購入することになり
ました。
最初に読んだとき、「人生は思惑の通りに行くかもしれないが、現実はといえば
なかなかそううまくは行かないものだ」と読みました。つまり、
「オットーラインがフィリップと離婚して自分と結婚してくれることはありそうなのだが、そうは問屋が卸さない、ままならないのが人生である。しかし、オットーラインと
スタッドランドでオットーラインと過ごしたこの3日3晩は私の人生で稀有なものとして
記憶に残るものとなった。」
という肉付けです。
しかし、ラッセルの自伝は大昔に読んだので、前後関係が非常に怪しく、
思いきって上のように読むのは避けてしまいました。
そこで、サイトに載っているテキストから、itを癌を宣告された恐怖ないし不安な
状況として読みました。
これが、近視眼的で読みが浅いと責められても文句はありません。
ということで、背景の読み取りが異なるということ、スコープの採り方が違い過ぎると
いうことになると思われます。
スコープの採り方が違うと出てくるものが全く異なります。
その例として、以下の文における"lump'で、Gilbert Adairがジョン・ランチェスターを
引用しているところにあります。
Beauty being, as we all know, in the eye of the beholder, . . . But let's consider the judgment of Tarquin Winot, the voluptuary
protagonist of John Lanchester's bestselling novel The Debt to Pleasure(ita.),
on seeing a few of these same photographs reproduced in a magazine article . . . that he has chanced upon. 'The child in question,' Winot bitches, 'could only honestly be described as a lump.'
この本、『最後の晩餐』は翻訳されていたので、参考にすることにしました。
翻訳文では以下のようになっていました。
なにも知らぬ私は射すくめられるがままだったのですが、愉快だったのは後日雑誌を
めくっていたらトーマス・マンを虜にした『ヴェニスに死す』の主人公アッシェンバッハ
の夢の恋人のモデルとなった実在の少年というのが掲載されていて---------これが
木偶としか形容のしようがないのですね。
lumpはa lump of sugarのlumpで、辞書には「木偶(の棒)」とあります。でも、これは非常に拙いです。木偶の少年がトーマス・マンを虜にするでしょうか?!
ここでは、美の基準、審美性が問題になっているのです。
そこで、木偶ではなく、「ポチャ」としました。
いずれにしても、ジョン・ランチェスターが実在のモデルの少年の履歴を知っていたら
'lump'という言葉を出していたか疑問です。
また、自らの愛らしさ、ないしは愛くるしい少年時代の写真を該当するタジョのモデル
になった少年の写真と並べてもらわないと、読者としては困ってしまうのが現状です。
ラッセルの自伝の該当箇所に戻りましょう。
松下さまはずっと継続されて自伝を読まれておられます。
私は、実際のところ、問題の文をさっと(=perfunctorilyに)読んだだけです。
軍配は自ずと松下さまの方に上がるでしょう。
http://www.geocities.jp/sstst716/index.html
|
|